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東京地方裁判所 昭和46年(ワ)10355号 判決 1974年3月19日

原告 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 竹内一男

被告 乙山二郎

右訴訟代理人弁護士 井田邦弘

同 中野允夫

右井田代理人訴訟復代理人弁護士 井田恵子

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し金三五〇万円及びこれに対する昭和四六年一二月二三日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁――主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、昭和三八年六月五日妻花子と婚姻し、その際右花子の連子である春子と養子縁組をなし、その後同年九月二八日、妻との間に長女夏子を儲け、親子四人で平穏な家庭生活を営んでいたものである。

2  被告は、東京都交通局○○自動車営業所に勤務している東京都庁の職員である。

3  原告は、○○市にある○○○○株式会社に勤務している者であるが、昭和三八年から居住している肩書現住所は、いわゆる借アパートであり、経済的には必ずしも余裕ある生活ではなかったため、家計の一助とするため、昭和四四年春から妻花子において前記○○自動車営業所に隔日に夜九時頃出勤し、約二時間位バスの清掃をするという業務内容でいわゆるアルバイトに出ることとなった。

4  ところが同年八月頃から、右花子の帰宅が遅く、時には朝帰ってくるようになったので、原告において、その理由を問い質すと、同女は、友達との附合とか、麻雀をしていたとか述べていたものであるが、同年一一月頃からは、夕方六時頃から出勤するようになったり、外泊も次第に多くなり、それにつれて家事処理も漸く疎かになったので、同年一二月、原告が花子を殴打したこともあったが、依然外泊は止まず、原告は妻の行動について不可解の点があったものの、判明しないままに経過した。

5  昭和四五年三月四日、原告が前記勤務先に出勤した後、被告はトラックを持ってきて、原告の住居に侵入し、原告所有の家財道具の大部分を搬出し、かつ前記花子と子供二人を連れだした。この出来事によって原告は、被告が前年一二月頃からしばしば原告の留守宅を訪れ花子と密会していたことを隣人から知らされた。

6  その後、原告は花子の母を通じて被告と話しあったところ、被告は昭和四四年八月頃から右花子と関係があったことを自認したものの、行動は自由であると主張し、原告の妻子を帰すことを承諾しなかった。また昭和四五年七月被告にそそのかされた花子は東京家庭裁判所に対し離婚調停を申立て、被告も出頭したが不調に終った。その際の話では、被告は花子に家を買って住まわせ、生活の面倒をみるといって連れ出したとのことであった。花子及び子供二人については被告において匿しているため現在その住居所不明である。

7  以上要するに、被告は昭和四四年八月頃から原告の妻である前記花子と不倫な関係を継続し、もって原告の夫としての権利を侵害し、花子をそそのかして同女自身及び子供二人をその家庭から連れ出し、もって原告と花子との間の夫婦としての同居、協力、扶助の権利義務の行使並びに原告の子供に対する親権の行使を不可能にし、これらにより原告の家庭を全面的に破壊したものであるが、これによって原告の蒙った精神的肉体的苦痛の慰謝料としては金三〇〇万円が相当であり、なお、前記搬出家財道具は合計金五〇万円相当であるから、この財産的損害をも蒙ったものである。

8  よって原告は被告に対し、合計金三五〇万円及びこれに対する不法行為の後である本訴状送達の翌日たる昭和四六年一二月二三日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否

1のうち、甲野花子が原告の妻であることを認め、その余の事実は不知。2を認める。3のうち、右甲野花子が昭和四四年春頃○○自動車営業所でアルバイトをしていたことを認め、その余の事実は不知。4は不知。5のうち、昭和四五年三月四日、花子が子供らと家を出たことは認めるが、その余の事実は否認する。右花子の家出は、長年にわたる原告との家庭不和に基くものである。6のうち、花子が原告を相手方として東京家庭裁判所へ離婚調停を申立てたが不調に終ったこと、同調停事件につき被告が一度呼出を受けたことは認めるが、その余の事実は否認する。7及び8は否認し、もしくは争う。

第三証拠≪省略≫

理由

一  (原告と甲野花子との婚姻及び子らとの親子関係等)

≪証拠省略≫によると、原告は、昭和三八年六月五日甲野花子と婚姻し、かつ同日花子のいわゆる連子である春子(昭和三二年四月一六日生で、かつて実父丙村三郎と養子縁組をしていたが、親権者は母たる花子)と養子縁組をなしたものであるが、昭和三八年九月二八日長女夏子を儲けたものであって、もとより婚姻当時から原告ら夫妻子は同居して家庭生活を営んでいたものであり、この状態は、後記のとおり昭和四五年三月四日、花子において右春子、夏子を連れていわゆる家出をなして別居するに至るまで継続していたことが認められる。

二  (右婚姻・親子関係の破綻と現状)

(1)  ≪証拠省略≫を総合すると、花子は昭和四五年三月四日、○○県○○○市○○×丁目××××番地×所在の二階建居宅に約半月間住んでいたが、その後、右二児を連れて都内○○区○○町×丁目地内に転居し、現に事務員として稼働して月収約四万円を得、これにその母らの援助を合わせて母子三名の生計を独立に営んでいるものであること、花子は昭和四五年七月頃、原告を相手に東京家庭裁判所に離婚調停の申立(同庁昭和四五年(家イ)第三三九二号)をしたが、昭和四六年一〇月頃不調に終ったものの、引続き原告に対する離婚を求める意思を懐き現住所さえ原告に秘匿しているもので、この意思は相当強固であること、他方原告は、花子らが右○○○市内に居住していた間、少くとも数回、その居宅を訪れていわゆる復帰を求め、または子らの通学の途次を擁して小遣を与える等していたものであるが、その後、妻子の消息を失いながら前記調停にあたっては離婚案を峻拒し、現に肩書地に独居しているもので、本件審理により花子の前記離婚意思がなお強固であることを直接聞知するも、婚姻の持続方を希求しているものであることが認められる。

(2)  そして≪証拠省略≫によると、甲野花子は家計の資にと昭和四四年春頃から肩書原告宅からバスを利用して一五分ないし二〇分の所にある東京都交通局○○自動車営業所へ、毎日午後一〇時頃から約二時間位バスの車内清掃婦として稼働することとなったところ、同年八月頃からは深更に及んで帰宅することもあり、同年一二月頃からは外泊したり、早朝帰宅することも多く、昭和四五年一月に入っては殆んど連日の如く早朝に至って帰宅するようになったこと、被告は昭和三七年頃からバス運転手として前記○○自動車営業所に所属勤務していたものであるが、昭和四四年八月頃から右花子と知合い、同年一二月頃花子からその夫妻仲が円満でないことを聞知ったが、そのころから時折、原告不在の昼間(最も早く訪れたときは午前一〇時頃であるが多くは正午頃)原告方に花子を訪れ、数時間居て遅くとも夕方には辞去するようなことがあったこと、前記昭和四五年三月四日当日には、花子の依頼に応じて○○○市在の運送店にトラックを手配し、花子らの転居(家出)荷物を右トラックに積む手伝をなし、自己の自動車に二児を同乗させて運転し、自己の所有する前記○○○市在の二階建居宅に届け、暫らく住居として使用させたほか、同年一月頃、花子に対し生活資金として一〇万円位を貸与したことが認められる。≪証拠判断省略≫

三  (被告による不法行為の成否及び原告ら夫婦の破綻原因)

ところで原告は、(イ)被告が昭和四四年八月頃から花子と不倫な関係を継続し、もって原告の夫権を侵害し、さらに(ロ)花子をそそのかして同女と二女児をその家庭から連れ出し、もって原告の夫としての権利義務の行使と親権の行使を不可能にした旨主張するので判断する。

まず(イ)の点に関しては概ね前記二の(2)のとおりの各事実が肯認できるにすぎず(原告本人尋問の結果の一部には、昭和四五年三月四日の花子らの家出後、花子の母である乙山月子方で原告が被告と話合った際、被告は花子を旅館へ何日か伴ったことを自認したとの部分があるが、花子も被告も右止宿事実を否定するばかりか、進んで被告は右内容の表白をしたこと自体を否定するところであり、他に右原告の供述部分を裏付ける証拠は全くないので、該部分はにわかに措信しえない。)、本件全証拠をもってするも、被告において花子といわゆる性的交渉関係を結んだ等、有夫の女子に対する紛れもない不倫な関係に及んだとの事実は、到底これを肯認できないところである。尤も前記二の(2)で認定した事実のうち、夫たる原告不在の折被告がかなり繁く花子方を訪れた点は、或程度非難に値する行為ではあるが、前掲証拠によれば、花子から原告との不仲や生計費とも満足に渡してもらえないことを愁訴されて同情のあまり、花子の内職を手伝ってやるために訪れていたものであることが認められるから、右往訪の事実をもって不法行為を構成するものとはいえず、また、いわゆる家出にあたって被告のなした前記認定の各事実は、夫たる原告を刺戟する種類の行為が含まれるものであることは明らかであるが、当時被告の見聞した事情もしくは入手しえた情報は、専ら花子側に立脚しもしくは花子側からのみ開示されたもの(尤も第三者が他の夫婦の機微に介入するには慎重であるべく、殊に離婚、別居の如き重大事態に際しては夫婦双方の云分を聴取すると共に、自らも冷静に事情を認知把握したのち、助言等をなすべきであることは市民道徳上からも当然であるから、叙上のような被告の対処態度自体反省を要するところである)で、しかも花子は被告の同情を惹くような言辞を弄し振舞に出たものであることを併せ考えると、被告の採った行動に軽率の毀は免れないが、未だ不法行為をもって問擬すべきものとは解し得ない。

次に(ロ)の点についても、被告が花子らの家出をそそのかしてその家庭から連れ出したとの事実はこれを認めるに足りる証拠はなく、却って花子の証言によれば、それまで花子はたびたび家出してその生母、実妹方等に赴いたことがあったが、(昭和四五年三月四日には自ら予め家出を計画し、一時の立退先として被告所有の○○○市在の二階建居宅を予定し、運送屋を手配して家出したものであることが認められ、その際被告は前記のとおり同女の立場に同情するのあまり協力したものであることが明らかであって、この間被告の行動は、原告側の云分を聞かず原告ら夫婦のそれぞれの立場を客観的に認知していなかったにも拘らず、卒然花子側のみを援助または同女の挙を容易ならしめる行動をしたとの意味で、これまた慎重さを欠くものであったといわなければならないが、原告に対して独立に不法行為となり、または花子の家出に違法に原因を与えもしくは家出を違法に幇助したものとは解されない。

≪証拠省略≫を総合すると、原告は大正一二年四月二〇日、○○県○○郡下で次男として生まれ○町の小学校を卒業後、二一才頃満洲開拓団に加わったことがあったが、帰国後上京し清掃会社に勤務するうち、丁川和子と婚姻し長男和男(昭和三四年生)を挙げたものの、天禀無口なうえに飲酒を好み、時に暴力を振うこともあり、右和子はこの性癖とその職種を嫌忌し、昭和三五年六月三日調停により離婚し、右和男を連れて去ったので、その後は僅かな世帯道具を持って都内○○○区○○○在の四帖半一間の借室に独居し、清掃会社に勤務稼働するうち、昭和三七年秋頃交通事故に罹災したところ勤務先の取引先である高橋某の媒酌で同年一二月頃甲野花子と結婚同棲を始めたが、まもなく退職して自ら清掃業及び清掃器具販売業を営むこととなったものの、不良債権を抱いて倒産するに及び、前記開拓団関係の年金や貯えはもとより、花子の生家からの援助金等で下請業者に対する支払を済ませると共に約一二万円を払って肩書住居のアパートに転居したので約三〇万円位の債務を負うこととなり、そのうえそのころから月賦ながら家庭電気製品を購入したりしたため、昭和四一年頃から○○○○株式会社に勤務するようになったものの、毎月花子に手交するのは二万五〇〇〇円程度にすぎなかったこと、他方花子は昭和四年四月一八日○○県○○郡下で、戊田一太郎、同ミツの長女として生まれ、遅くとも昭和三一年頃、○○市内で丙村三郎と事実上結婚し、昭和三二年四月一六日同人との間に春子を挙げたが、婚姻届も子の認知も得ないまま、昭和三五年頃右三郎と死別したので、事務員として稼働するうち、知合である前記高橋の媒酌で二回位会っただけで、原告と見合い結婚したものであるが、主たる動機は原告が交通事故に罹ったことに同情したもので、必ずしも確たる婚姻意思がなかったものであるが、生来喋舌、勝気強情であるうえにかなり知能程度も高く、経済的願望も強かったところ、同棲後間もなくしてその結婚は失敗であると思いはじめ、原告との性向の相違や原告の経済力の不甲斐なさ等を多弁にまかせて言いこめたりするので、言葉につまると原告は家財道具を投げたり暴力を振うことも稀ではなくなり、原告らの夫婦仲はつとに悪く不安定で、昭和四〇年八月頃には熱湯を浴びせられた花子が、独り家出したこともあったこと、尤も原告は昼間その勤務先に精勤するばかりか、他に夜警をする等して稼働していたので、花子においても二女児の上を思って共働きすべく、昭和四一年ごろから家事手伝、パートタイムの掃除婦等として就労することが多く、昭和四四年春頃からは、前記○○営業所に日給約一〇〇〇円で稼働することとなったこと、ところが花子は、午後八時頃から自宅を出るものの、最終入庫バスは午後一一時半頃であって、その終業はまず深夜一二時以前になることは稀であったところ、仕事仲間に附合って帰宅が遅れることもあり、原告から勤務をやめるよういわれるや、却って原告の稼ぎの少いことを言いたて、これに対して原告は暴力を振い、結局夫婦喧嘩となる等、原告と花子との夫婦仲は次第に破局への一途を辿り、昭和四四年一二月ころからは、原告は経済封鎖と称して生計費を殆んど全く渡さず、花子は暴力を避けると称して母妹知人方を泊り歩き、辛うじて女児の登校・登園のために早朝帰宅することが常例となり、そのころ花子の弟をも交え、原告との間に離婚話が出たが原告はこれに応じなかったこと、その後遂に昭和四五年三月四日花子は二女児を連れて家出したこと、被告は大正一三年生であるが、大正七年生の妻と恋愛結婚し、現に長男(二九才)、次男(二六才)及び長女(二三才)の三子を挙けているものの、右妻は肺結核を患い昭和三九年頃から別居して療養生活中であるが、昭和四四年八月頃花子と職場で知合い、時に話合ううち、同年一二月に催した職場関係の小人数(四、五人)の忘年会で、花子からその身上を聞かされ、単純にそのとおりのものと信じ痛く同情し、その頃から非番の昼間、原告宅を訪れて花子の内職作業(カセットの部品組立)を手伝い、家出に際しては、その資金等として一〇万円を貸与したほか、病妻帰住の際の保養先として購入した家を暫らく提供したものであることが認められる。以上事実を要するに、その帰責事由の帰趨を措くと、原告の主張する花子の外泊、家出等は専ら花子自身の意思に因るものであって、仮りに何人かの言動がこれらに影響を与えているとしても、それらはすべて花子の主体的意志決定を左右する態のものではないものといわざるを得ない。

四  よって原告の本訴請求は、すでに失当であるから、その余の判断を省略して棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用する。

(裁判官 薦田茂正)

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